2013年09月06日

邪視は存在するということについて。

最近、目の護符について興味を持っている。
目を描いて厄除けにするお守りのことで、トルコのナザールボンジュウが有名だ。

きっかけは、夫が「邪視」を受けたことだった。
旭川へドライブして、食事をとろうと初めての店に入ったときのこと。店に入ったとたん、初老の女性店員が夫の方をじーっとしばらく睨んだというのだ。「かなり恐い顔で睨まれた」そうな。ふだんのんびり屋の夫が珍しく気にして、「死相でも出てたのかな」と言って数日元気がなかった。その時は私は何も気づかず、ただ目力の強い人と思っただけだった。

このことをきいたとき、すぐ邪眼の言い伝えを思い出した。
邪眼=邪視、英語ではevil eye。悪意を持った視線を受けると、視線を向けられた者に災いが降りかかるという。邪視を怖れる民間信仰は世界中にあるそうだ。西洋では生まれながらに邪眼を持っている人間がいるとも言われ、そういう人間や一族は魔女のように怖れられ嫌われるという。日本の犬神筋に似ている。






もっとも私は、その店員は悪気があったわけではなかったと思う。注文を取りにきた時は普通のおばさんだった。夕方暗くなりかけた時に薄暗い店内に入っていったため(照明を落とした店だった)、歳で眼の弱い店員がつい入ってきた人間をじっと見つめたとか、そんなとこではないだろうか。
ただ、旭川での出来事があった当時、夫は仕事のことで大きなストレスを抱えていた。つまり弱っていた。弱っているときに強い視線を受けると、それだけで人は災いを受けてしまうのかもしれない。
夫には邪眼の言い伝えを教え、そういう時専用のお守りがあるんだよと話した。翌日バーナーワークで親指大の”ナザールボンジュウ玉”を作り、紐を通して夫にあげた。首に提げてシャツの中に入れておく、即席のお守り。

Nazar Boncug ナザルボンジュウ
今度の件で、邪視は本当に存在するのだと思った。
わざと悪意を込めて邪視を向けることもあるだろう、けれど無意識に向けた視線が、場合によって邪視になってしまうこともあるんじゃないだろうか?

実は私自身、邪眼の持ち主らしい。
名前を呼ばれて何気なく振り返った時だとか、こちらは無心なのに「恐い目!」とか「なぜ睨むの、怒ってるの?」とか、子供の時からよく言われた。親にもあんたの目は恐いから気をつけなさいとよく言われていた。なにかと人に誤解されることも多い人生だ。そんなわけで夫の一件も「邪眼持ち」の立場から読むことができる。

目は心の窓と言われ、思いは目に表れる。悪意は目から放たれる。そんな悪意が世界には氾濫している。怯えているだけだと外を歩くこともできない。少々の悪意は跳ね返す力は生きていくために必要だ。でもいつでも強くいられるとは限らないし、弱ってることもあれば油断していることもある。だから邪視を跳ね返すお守りが必要なのだろう。
posted by kobune | 散文
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